生成AIを初めて使ったとき、正直に言うと、少しだけ後ろめたさがありました。
もしかすると、心のどこかに「楽をしているのではないか」という気持ちがあったからです。
時間をかけて積み上げてきた技術を裏切るようで、時間から逃げてるような感覚がありました。
ボタンひとつで世界が完成する。
それは、作家としての誠実さを試されているのと同時に、これまでの努力が軽く扱われるような怖さがありました。
だけど、その違和感から目をそらさないようにしていました。
なぜなら、心の奥の方に強い好奇心があったからです。
生成AIに対して、なんとなく違和感を持つ人も多いのは事実です。
かつての僕も、そうでした。
生成AIでデジタルアートを始めた理由
僕が生成AIに求めていたのは、決して効率目的ではありません。もっと幻想的で、もっと自分の思想に近い世界を探すため。
現実の延長線ではなく、現実のさらに奥にある気配を感じとるため。
これまでの僕は、デジタル作家として光を追い続けてきましたが、いつも“光そのもの”よりも、“光が残した余韻”に惹かれていました。
Photoshopで幻想世界を組み立てていると、気づかないうちに、作品に光を描いている自分がいました。
「なぜこの作品に光を入れたのだろう?」
と自分に問いかけるも、その光がなぜ必要なのか、最後まで言語化できませんでした。
だけど生成AIは、その余韻に触れられる可能性を感じさせてくれました。
それが、生成AIでデジタルアートを始めた理由です。
Photoshopだけでは越えられない領域
僕はこれまで、Photoshopをメインに自分が感じた幻想世界を作ってきました。
光を足し、
影を削り、
色を整える。
グラフィックデザイナーで積み重ねた技術を使い、理想の世界へと近づけていく作業。
ところがある日、自分の作品に納得できない瞬間がありました。
「なぜこの作品は心に響かないんだろう?」
そこで僕は気づきました。
「これは技術の問題ではなく、構造の問題だ」と。
それは、Photoshopでは越えられない領域でした。
僕はこれまで、ただ現実を編集をしていただけで、現実の外側にある“感覚そのもの”を可視化していなかった。
そのとき、生成AIという選択肢が生まれました。
言葉が世界を生成した瞬間
生成AIは、主に言葉を元に世界を生み出すもの。これを、『プロンプト』と言います。
AIにプロンプトを打ち込んだとき、初めて自分の言葉と正面から向き合うことができました。
曖昧な言葉では、曖昧な世界しか出てこない。
思想がぼやけていれば、生成される世界もぼやける。
ごまかしが効かない世界。それが、“生成AI”。
何度か試作を重ねていくと、ある瞬間「これは自分の世界だ」と感じれるようになりました。
簡単に画像が生成されたからではなく、自分の内側にあった抽象的な世界が、言葉を通して具体的な世界になったからです。
そのとき僕は理解しました。
「生成AIは、近道をするために存在するのではなく、言語化の試練装置だ」と。
生成AIは、決して技術を近道させる装置ではありません。むしろ、思想が問われる場所です。
これは楽なのか、それとも別の努力なのか
世の中では「AIは便利だ」と言われています。確かに、操作だけを見れば簡単かもしれません。
だけど実際は、言葉に落とし込んで問い続ける必要があります。
これは本当に自分の世界か。
偶然に頼っていないか。
思想が薄まっていないか。
写真やPhotoshopでは、手の技術が試されますが、生成AIでは、思考と言葉の精度が試されます。
それはつまり、努力の形が別ものと言うことです。
僕は表現の責任から逃げているわけではなく、より心の深い場所で生成AIを使う責任を感じています。
それでも、私は向き合う
もちろん、生成AIを肯定するために使っているわけでも、正しさを証明するためでもありません。
ただ、自分の思想がどこまで届くのかを試しています。
制御と偶然のあいだ。
人間と機械のあいだ。
その曖昧な境界線に立つことが、今の自分にとって自然だからです。
生成AIを使ったデジタルアートについて、今もまだ的確な答えは出ていません。
それでも、僕は正面から生成AIと向き合っています。
AIと共作するのではなく、AIを通して自分の思想と向き合い続けるために。
それが、今の僕が生成AIに向き合う理由です。

